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39条について質問した者ですが、自分も概ね先生と同じような方向で考えます。ただ未熟者なのでいざ削除論者を前にすると全然説得できないというか何を言って良いのか分かりませんでした。何を言っても相手は「結果責任でしょ!結果責任だよ!結果が同じなんだからね!それが当たり前!」の一点張りで、例えばそれに近代の原則ガーとか刑法上の常識ガーとか言っても「そんな小難しいの知らない!学者の感覚はズレてる!」で終わっちゃうんです。「行為の背後にある意思の性質を問わない以上はそれでいい、というならば(中略)たいていはそんな無茶な、と思われることでしょう。」と仰りましたが意外と無茶と思ってもらえない感じです。

(続き)宮崎哲弥さんなんかも犯罪の法学的定義は必ずしも反直感的なものではなく、多くは一般人の常識と親和的だが、唯一「有責性」の条件だけは「一般人の常識的認識には出てこない」「法専門家独特の定義」「一般人の常識とは著しい乖離をみせる」と書いていた事があります。彼が言うようにどうも有責性とか責任能力の要求は、素朴な大衆的感覚(常識感覚)からするとよく分からない変な想定という事になる場合が少なくないようなのです。こういう発想や制約、条件の大切さとか有用性を誰にでも上手く分かってもらうために何か良い理由付けとか論法ってないものでしょうか。

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.この回答ですね。
http://ask.fm/tkira26/answer/124004642535
.近代刑法の責任主義の原則がどうのこうのとかいうのは話をむやみに広げすぎで、一般の方向けの話ではないのですが、そうはいってもそこまでまるっきり結果責任で、という乱暴な話で終わっちゃうものでしょうか……。たとえば「情状酌量」をどう考えるかという点はいかがでしょう。同じ殺人であっても快楽目的の残虐なものと、生活苦で追い詰められた末のものとでは、道徳的に非難できる度合いが通常は違ってくると思います。それを認めるのであれば、結果の背後にある意思が刑罰の重さにとって重要であると認めているのですから、ではその意思がきちんと責任を問いうるようなものだったかどうかちゃんと考えるのも必要ではないか、というふうに話が進められるでしょう。39条の責任能力や41条の責任年齢の問題は確かに一般人の感覚からすれば受け入れがたいところもあると思うのですが、でも、情状酌量の必要とか、あるいは故意と過失の区別を認めるのであれば、責任能力の有無もどこかで線を引かないことには一貫しないでしょ、ということは言えると思います。「あなたも交通事故で人の命を奪う可能性がゼロとはいえないでしょ、それが残虐な殺人と一緒にされるのは受け入れられないんじゃない?」みたいな言い方がいいでしょうか。そこで「いやそれとこれとは別!」と根拠なしに言われたりするならば、そういう方にあえてこんな話をする意義は見出せないように感じます。

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国家が国外の貧困を、国内における貧困と比べて軽視しているということはどのように正当化されるのでしょうか?帰結主義にせよ義務論にせよ、標準的な倫理学理論では正当化できないと思うのですが、コミュニタリアニズムやある種の徳倫理の考え方を採用すれば正当化できるのでしょうか?

.ネーションステートの規範的意義みたいなものを考えていく方向になると思います。現状、まるっきりのコスモポリタニズムは理論的には一貫していても実行可能性には乏しいので、何らかの形で取り扱いの違いを考える必要はあるところでしょう。
.1)普遍的な価値を実現するうえでのネーションステートの手段としての価値を認める立場: ロバート・グッディンという功利主義者の有名な議論に「割当責任論」というのがあります*1。功利主義的には国境に何か本質的な価値があるわけではないけれども、効用最大化という目的を達成するためにはそれを第一に各国家の役割として割り当てたほうが効率的であるというもの。どこにどういう具体的ニーズがあるかを把握するにはあまり世界規模で考えても仕方ないので、そこそこの単位の「現場」に任せるのがよいとするわけです。それが第一段階。で、現実にはダメな国家もたくさんあって、そんな責任を果たせない場合もあるわけですが、そのときには割当が解除されて国境を超えた責任が復活する、という筋立て。これは理論的にも二枚腰で、現実の実践のあり方にも適合的なのでかなり強力な議論といえます。また、内容は全く異なりますが、リベラルな普遍的価値を実現するうえでの手段的な価値としてネーションの紐帯を重視するリベラル・ナショナリズムなども、発想としては似たところがあります*2。
.2)正義を「各」社会の構成原理とする立場: これはロールズのリベラリズムに典型的ですけど、彼のいう正義は相互性=互敬性(reciprocity)が成り立つ「同じ社会」を構成するための原理です*3。ざっくりいえば、立場の交換可能性が相応にリアルなものとして考えられるぐらいの範囲というか。したがって正義の要求する義務はその社会のなかにとどまり、「同じ社会」を構成していない外部には適用されません。ロールズのグローバル正義論がほとんど無内容のふぬけたものであるのは、そんなふうに正義の概念に最初から reciprocity による縛りをかけているからです。reciprocal な社会の構成を第一に考えるのであればこういう考え方も相応に筋が通ったものではあります。もちろん、仮にそう考えたとしても、現代のグローバルな世界を前提とすればロールズ的な reciprocity は世界規模に拡張できるのではないか、といった筋の批判はありえます。

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*1 Robert Goodin, 'Utilitarianism as a Public Philosophy,' Cambridge U.P., 1998.
*2 David Miller, 'On Nationality,' Clarendon Press, 1995.(富沢克・長谷川一年・施光恒・竹島博之訳『ナショナリティについて』(風行社、2007年))など。
*3 reciprocity と "social" justice の関係についての思想史的な概観として、David Johnston, 'A Brief History of Justice,' Wiley-Blackwell, 2011.(押村高ほか訳『正義はどう論じられてきたか――相互性の歴史的展開』(みすず書房、2015年))。

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Liked by: すちべあ

結局、ネオコンにレオ・シュトラウスの影響ってあったんですかね?なさそう。

.ネオコンとかネオリベとか、実在しないものについて影響を考えても仕方ないですよ。

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フランクフルト学派最新世代とも交流してきてください。

.さすがにハーバーマス先生とかになるとあれなので、実際にお会いするのは新しい世代の方々だと思います。

ところで何でドイツに行くんでしたっけ

.あちらの少子高齢化とか移民にかかわる世代間問題について調査してきます。フランクフルト大学に行くんですが、ハーバーマス先生に会えるかなあ?

丸山眞男の『「である」ことと「する」こと』って、哲学のいう形而上学的なものと自然生成的?なものという構図となにか関係があるんでしょうか?捉え方が似てるなって思いまして

.関係ないです。普通に読みましょう。

ヘンリー・メインの『古代法』という本に名著臭を嗅ぎ取ったのですが、読んだという人にほとんど会いません。もしかしてこれはあまり有名な本ではないのでしょうか。

.「身分から契約へ」といった表現はとても有名ですし、オースティンの無味乾燥な本よりはずっと広く読まれているんじゃないかなあ。でも確かに、現代の英米の法哲学で話題になることはそれほど多くないかもしれない。

犯罪予告はやっぱりリバタリアニズム的にもいけないことですか?目の前の人を直接脅迫するわけではなく、実質的な準備を進めるわけでもなく、むしゃくしゃして巨大掲示板や個人ブログに「どこどこで○○してやる」とか書く場合です。

.そういうものでも、たとえば警備が必要になったり、人々の恐怖心を煽ったりといった具体的な損害が生じえますので、普通にいけないことではないでしょうか。でもどちらかというとそういうのは民事上の不法行為として扱って、損害に応じた賠償を課す方向が望ましいとは思います。なお、リバタリアンが非犯罪化しようとするのはいわゆる「被害者なき犯罪」で、たとえば同意のうえの売春や賭博などです。あらゆる刑罰を廃止しようとするラディカルな立場(民事に一元化)もあり、私はかなりの程度にそれを魅力的に感じるのですが、さすがにそれは支持が得にくいだろうとも思っています。

「被害者なき犯罪」を非犯罪化しようとするリバタリアン的には大麻の合法化にも賛成?

.大麻ぐらいであればおそらくほとんどのリバタリアンが合法化に賛成すると思います。それ以上に不可逆的な依存性があったり、攻撃性が明らかに高まったりするものについては意見が分かれてくるところでしょう。

法哲学の視点から、中央銀行や金融政策、銀行システム、貨幣などを扱う場合どのようなことを論じますか?

.いくらでもいろんな切り口が可能だと思いますが、たとえば金融政策だったらそれは国家の正当な仕事なのか(市場に任せてはいけないのか)とか、そういう専門的な問題に民主的な「熟議」はどこまで及ぶべきなのか(そこでの専門家や司法との関係も)とかまあ、なんでも。金融機関が破綻した場合に公的資金が注入されるのは正当化されうるか、みたいな問題だと具体的で、正義論として議論しやすいでしょうか。貨幣と法というのも、人々に受容されるがゆえに成り立つと考えて、その比較から規範性のあり方を考えていくとかありでしょうね。

ネオコンとネオリベって同じですか?

.子ブッシュ元大統領と小泉元首相が同じ程度には同じだし、違う程度には違うだろう、ぐらいの感じだと思います。学術的な分類というよりはマスコミ用語といったものなので、あまり厳密にどうこういっても仕方ないところです。でも一方、カタギの人としてはやっぱそこらへん気になるところのようなので、んなもん別にどっちでもいいですとばかり言っててもいかんのかなあ?とも思っています。

リバタリアニズムは欧米のキリスト教徒のみの考え方でしょうか?イスラーム教国(例えばイラン)にリバタリアンは存在しますか?

.人間のある程度の利他性を楽観的に想定する傾向はキリスト教的といえるかもしれませんが、それぐらいの個人道徳の記述的な部分であれば宗教的背景を抜きにしても理解可能だと思います。その限りではイスラームでも共感される方はいらっしゃるかもしれません。一方、リバタリアニズムは基本的には国家権力の正当性にかかわる思想なので、近代的な主権国家体制をどう捉えるかによってその受容も変わってくるはずです。なので、イスラームの国家思想においてリバタリアニズムが可能かどうかというと、そこであまり単純な議論をすべきでもないでしょうし、あえてそういう問題設定をすることにさほど生産的なものがある感じもしません。

先生はどうして共産趣味者になったのですか?

.私が大学に入ったころにはまだ、民青(共産党系の学生団体)と革マルが駒場でいがみ合っていたり、革労協が内々ゲバで殺し合いまくったりしてたので、「こいつら何してんの?」というのを調べてみたかった感じです。あと高校生ぐらいに桐山襲とかの小説を読んで、これって何だったのかな、というのも気になっていたりして。それで立花隆『中核 vs 革マル』とか読んだ感じ。あと、当時は2ちゃんねるの共産党板とか、それ系のアングラサイトに活動家の人がけっこう書き込んでいて、昔の変な資料もいろいろ読むことができたので、勉強するにはいい時代(?)でした。今からそれたどるのはけっこうたいへんかもしれない。
.だいたいの関心としては、中核、革マル、革労協、それから反日武装戦線といったあたり。それ以前のブントや全共闘のいろいろは、今はえらくなったおっさんが「昔はおれもバカやったもんだ」みたいにふんぞりかえって語るのがウザいし、また70年代以降の赤軍関係のいろいろなどは、遅れてきた劣化コピーがやぶれかぶれに先鋭化したものであって、ただ凄惨でわびしいだけで共産趣味的にどうこういうものではないと思っています。

「新しい公共」って少し前に話題になりましたが、ぶっちゃけ新しくないと思うんですけど。

新しい公共って少し前に話題になりましたがぶっちゃけ新しくないと思うんですけど

法哲学会ってトンデモさんがやってきて発表したりしないんですか。

.発表についてもかなり厳しい査読がありますので、物理学会の隔離セッションでやっているUFO哲学みたいなのはないです。

FF外から失礼するゾ~(謝罪) ここの質問コーナー面白スギィ!!!!!自分、質問していいっすか? 淫夢知ってそうだから淫夢のリストにぶち込んでやるぜー いきなりリプしてすみません!許してください!なんでもしますから!(なんでもするとは言ってない)

.なんかよくわかりませんが、質問はご自由にどうぞ。

先日、裁判員制度についての「量刑が計画殺人>衝動殺人となる慣習の理由に納得する人が少ない」といった趣旨の記事を見掛けました(ソース失念)。法律家は、衝動⇒善悪の判断が低下している虞、計画⇒判断を保って殺人を遂行、ということからみたいですが、自分も納得できませんでした。衝動で倫理的な冷静さが低下しているからこそ、そのような場合でも損得で合理的計算に省みるような強い量刑を事前に周知しておいた方が思い止まる人も居るのではと思います。逆に計画者は冷静ならば損益を計算した上での実行なので、量刑の絶対水準の問題なのでは。

.一般予防効果(刑罰の存在によって社会の人々一般に犯罪を思いとどまらせる)がどれだけあるかという問題がとりあえずひとつですね。「ついカッとなって」系の犯罪、特に殺人になってくるとこれはもうほとんど効果がないっぽいです。人を殺すほどに激情的になっている状態では、その後の量刑なんて考えるわけもないというのが実情でしょう。計画殺人の場合はまだしも、それなりに考えるプロセスがあるわけなので、綿密に考えれば考えるほどに刑が重くなる、というのを知っていれば少しは思いとどまる機会ができる、かもしれない。このへんはなんとなくの想像で考えても仕方ないので、統計的にみていく必要があります。
.もちろん、予防目的だけで量刑が決まるわけではありません。衝動殺人であればその場の激情なので判断能力がほとんどないのに対し、計画殺人であれば相応に持続した意思があるわけなので、それだけ重く責任を問うべきである、という考え方もできます。自由意思によって行った行為について責任を問う、という刑法の責任主義の原則からすれば、そういう分け方も一応、筋が通ったものといえるでしょう。
.とはいっても、そんな意思の性質によって責任が変わってきて、結果的に刑罰が重くなったり軽くなったりするのは納得できない、という意見も最近は強くなっているようですね。結果が一緒なんだから、計画殺人だろうが衝動殺人だろうが同じように罰すべき、というのもありえます。これは責任主義への挑戦という意味ではとてもラディカルなんですけど、そうするともっと話が広がっていきます。じゃあ、殺人も過失致死も人が死んでいるという意味では同じなんだから、同じ刑罰にすべきかというもの。いや、それは故意の有無で分けられるだろう、というところかもしれませんが、意思の性質を考えないでおいてそんな区別が維持できるか、というのも相当に難しい問題であるように思います。そのへんについて少し詳しく答えたものとしたこちら↓。
http://ask.fm/tkira26/answer/124004642535

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所謂「ネット保守」や現総理(とそのお友達)が憲法改正に関して両陛下を蔑ろにする逆臣だという意見を良識的な保守派の方々が発言するのを目にします。皇室に素朴な尊崇の念を持つ自分も同意してしまいます。しかし良識派の「天皇皇后がこう言ってるのに関わらずコイツラときたら…」という考えもどうなんでしょう。両陛下の意見は個人の意見としてそれ以上でもそれ以下でもなく、「天皇が」何を言ったか(又は言ってないか)ということと憲法のあり方は全然関係ないし、関係すべきでもないと思うのですが。先生はどう思いますか。

.保守というからには尊皇だろうという決めつけでそうやって天皇を「政治利用」しているのでしょう。そんな政治利用はけしからんとばかりいうのは政治的にはナイーブなので、使えるものは使うという戦略でやっていくならそれもまたひとつのやり方です。でもこれって、当の保守側には正直あんまり効いてないでしょう。「天皇抜きのナショナリズム」かどうかはともかく、ある程度以降の保守、とりわけ「ネトウヨ」と呼ばれる人々にとって皇室はそれほど大きな存在ではないので、そこを批判されたからってだから何?という具合に空回りしています。むしろ、そういう批判に効果があると思い込んでいる側のほうが、戦略の本質化とでもいいますか、象徴天皇制+戦後民主主義の懐かしいセットに先祖返りしている感じ。
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法哲学者として倫理学者に言いたいことはありますか?

.豊島区民として板橋区民に言いたいことはありますか?と聞かれている気分です。

吉良先生の次の論文はいつごろに?

.いろいろ書いているので、ぽつぽつ出てくると思います。出たら宣伝します。

昔食事中にいきなりipad取り出して将棋始めたの吉良先生でしたっけ。

.なんか変な言い方になってますけど、飲み会で「あ、将棋が趣味なんだ、じゃあ一局どうよ」みたいな流れになることはあります。

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