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自分なりに独自に辿り着いたアイデアが、既に言及されたもの、使い古されたものだった…等ということは全く普通のことですよね!?先行研究からそういうものを見つける度に我が意を得たりと思いますが、反面悔しくもあります!ここからもっと先に進むためのアドバイスを下さい! …因みに、全く個人的なことですが最近のそういう経験の一つは、ルソーの一般意思をロールズの無知のヴェールを用いて高次のルールの導出として説明することでした(ちくま新書の『社会契約論』)。無知のヴェールって多様な個人を一つの人格に組織する全体主義的装置だと思いますか?

.ロールズの無知のヴェールの議論に出てくる登場人物って、要するに特定の合理性とリスク選好を有した「1人だけ」でしょ?というのはかなり早くから指摘されています。ただ、その結果がルソー的な一般意志かというと、一般意志というのがそもそも何なのかわかりにくい概念であることを差し引いても無理がありそうですし、善に対する正の優位にも反するんじゃないかと思いますが、まあ、あんまりよくわかりません。
.自分なりに考えたアイデアがすでに誰かが考えたものだった、というのはもう日常茶飯事です。ふつうの人が思いつくことなんて、アリストテレスがすでに何百倍も深く考えています。なので、そういう可能性に謙虚でありつつ、ひたすら勉強あるのみっすね、というつまらない結論になってしまいます。50年ぐらい地道にやってれば、ひとつぐらいは何かオリジナルなこと思いつくかもしれません。

「立憲主義」という言葉は某氏のお陰で最近一気に浸透したので、自分も日本の代表的な憲法テキストをい幾つか読んで勉強してみましたが、どうも「立憲デモクラシー」などという場合、民主主義という統治体制が立憲主義(統治の制 限)を担保すると言っているように思えます。しかし立憲主義の統治の制限という本来の意味を考えると、統治体制である民主政こそ憲法によって制限されるべき対象で、その制限を担保するものは民主主義とは別の原理に求めるべきではないでしょうか。合衆国憲法はどちらか というとこんな発想な気がしますが、憲法や立憲主義について所謂「通説」とは異なるテキストご教示頂けませんか。

.立憲主義と民主主義は一定の緊張関係にあるというのがこういった議論をする上での出発点になるんですが、憲法の教科書レベルではあまりそういうことは書いてないですね。立憲主義でいうところの統治権力の制限がなんのためになされるかというと、民主政体においては多数派の圧政から基本的人権を保障するためというのが重要なものとしてあるでしょう。そうすると、民主的決定であっても許されないものがあり、それを保障するのが憲法――具体的には個々の人権条項――であるといった筋になります。ではなぜ/どこまでそれが必要になるのか、というとなかなかの大問題になるわけですが、民主主義が機能するためには一定の自己拘束が必要になるとか、いろいろと両立の仕方が考えられています。とりあえずはこうした問題状況を見事に整理したものとして、阪口正二郎『立憲主義と民主主義』(日本評論社、2001年)がありますので、ご覧になってみてはいかがでしょう。
http://www.amazon.co.jp/dp/4535512523
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正義論で税金の公正な分配について論じている文献ありますか。

.「税金の使い方の正義」だったら、現代の正義論は何らかの形でそれをつねに論じているのではないかしら。政府の役割とか、社会保障がどうあるべきかとか。じゃなくて「税金の取り方の正義」だったら、たとえばマーフィー&ネーゲル『税と正義』(伊藤恭彦訳、名古屋大学出版会、2006年)とか参考になるかもしれません。
http://www.amazon.co.jp/dp/4815805482

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人類が人間以外の知性的存在と接触すると きがくるとしたら、最初の相手はなんだと思 いますか。地球外知的生命体?自我を獲得し た機械?遺伝子操作によって生まれた何者 か?

.すでに出会ってますよ。サル、犬、猫、などなど。ってそんなことじゃないんだけど、と言われそうですが、それ以外の未知のものを想像してもさほど面白いものは出せそうにないので、単に「わからない」としておきます。

どのくらい論文は読まれますか? やべっ、この人の論文知らねぇ…ってときもありますか? 論文はいちいち参考文献までとびますか?

.日本の法哲学者が書いたものであればほとんど、あと憲法学者のものもある程度、実際に読んではいなくてもとにかくこういうのがある、というのはわかりますので、ある程度新しいものでまるっきり不意打ち的に全然知らないのがあってやばい、なんてことはそうそうないです。というのはなぜかというと、『法律時報』という雑誌の毎年12月号に「学界回顧」という特集があって(毎月のコーナーもあります)、各分野の論文がかなり網羅的に紹介されているからです。あと、法学系の新刊や紀要はなんだかんだで毎月ひととおりチェックしますので、関心のある分野で落とすことはあまりない、はずです。いやまあ、タイトルから中身がよくわからないものなどはどうしようもない部分もあるんですが、まあそれも含め、重要どころを落としていたら怠慢といわれても仕方ないです。法学系はそんな感じで、あと政治学系もある程度はそうやって探し方がわかる(つもり)んですが、一方、哲学・倫理学や社会学とかだとそこまで慣れているわけではないので、なかなかどうしても、というところがあります。
.外国語の文献だとこれはもう、網羅的につぶすのは不可能ですので、主要誌の目次を毎月チェックしたり、注から地道にたどっていったりで、とにかくできるところまでというのが精一杯です。まあでも重要文献だったらいろんな注で頻繁に目にするわけなので、名前さえまるっきり知らんかった、というのはないようにしたい……のですが、まあそれでもなんでもかんでも読める時間があるわけでもなし、ある程度は割り切らないと仕方ないと思います。

判断能力は生まれ持ってのものではなく自身一人のみで獲得できるものでもなく教育によって与えられるものとして、まだ与えられていない子どもが自己責任ではないと言われ不幸にもマトモな教育を受ける事なく判断能力を手に入れられなかった大人は自己責任と言われるのはなんなんでしょう

.ちょっとよくわからないので、何かそういう具体例を出していただければありがたいです。暴力をふるってはいけないとかモノを盗んではいけないとかそういったことだったら、教育によって与えられるというよりは、ある程度の年齢になったら自然と身に付ける(べき)ものとされているんじゃないかしら。他人とまるっきり没交渉に生きてきたとか、何か極端な事情がある場合には、責任判断においても相応に考慮されるんじゃないかと思います。

ドウォーキンの文章って難しくないですか。英米という先入観のせいかもっとスッキリしてるイメージがありました…

.難しいですね。独自の概念を駆使しまくるのと、その場の議論にとにかく勝つために内輪の話を延々とやるところがあるので、すごく読みにくいものになってしまっています。他分野の人に読まれにくくなるのでとても残念なことだと思います(いま出ている翻訳はどれもよいものなので、翻訳の問題ではありません、念のため)。どうもなんか、後からどんどん加筆して膨れ上がってしまうタイプの人だったようですね。遺著の Religion without God は講演録なのですが、これは十分に加筆する間もなくドゥオーキンが亡くなってしまったこともあり、わりとシンプルな主張がそのままになっていて比較的読みやすいです。たぶん近いうちに翻訳も出ることでしょう。
.ほか、ドゥオーキン以外でも、英米の法哲学でよく出てくる論者はあまり読みやすい文章を書かないのでちょっと困ったものです。ハートは高尚すぎるし、ラズはもう最悪だし、ロールズは留保ばっかりだし、ノージックも主張は明快なようでいて細部はなんだかよくわからない。もっとスカッと読める本があればいいんですけど、他分野への普及という点ではわりと難儀な要因のひとつになっています。

国家学会雑誌はいつになったら電子化されるのですか?

.知らないです。歴史がありすぎて著作権処理とかいろいろ面倒なんじゃないですかね。あと、ほとんどが後で本になるわけなので、それとの関係も。

きら先生もask.fmで誰かに質問していますか? しているなら質問するにあたって心掛けていることも教えてください。

.直接の知人のところでしょうもないこと言うぐらいです。ぱうぜ先生のところでぱうぱう鳴いてくるとか。匿名でものを言うのをあまり好まないので、そういうときでもちゃんと「おまえ平田だろ」とわかるように心掛けています。これは別に自分が匿名で何か言われるのがイヤなわけでは必ずしもなく、研究者たるもの、ありとあらゆる手段で名前を売るべきところなのに匿名にするなんてもったいない、という考えによっています。もちろんそれは個人的な貧乏根性なので、他の研究者の方もそうすべきとかはあんまり思っていません。
.他の方に何か聞きたいときは、askやってれば twitterもあるでしょうから、そちらに直接リプライ飛ばすのが手っ取り早いと思っています。しかし、ask で軽く聞いてみたいという気持ちもわかりますし、それもまったくかまわないと思いますが(じゃなかったらこんなにたくさん答えないですね)、なんというか性格的に、答えがなかったら軽くへこんじゃうタイプなんですよね。だから、スルーされたらされたで仕方ない、というのが前提になっているメディアはあまり使いこなせていないです。というか、同様の方の質問をスルーしてがっかりさせてたら申し訳ないなあ、と日々苦しんでいます。
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某先生が訳した『あなたが救える命』が発売しました。これも世界正義論なのですが、倫理学らしく(?)貧しい人々に対して寄付することの重要性が書かれてました。これが法哲学とか政治哲学の世界正義論だと国際法とか国連とかの議論になってくるのですかね。

.まだきちんと読んでいませんが、ああいった話であれば法哲学や政治哲学の世界正義論でも同様に議論されています。もちろん、法制度の問題に関係付けて論じるものもありますが、そうしないといけないわけでもありません。なので、内容的には倫理学とかなりの程度に重なることもあるわけです。じゃあ何が違ってくるか、ということでは、以前にお答えした↓こちらなどご参照ください。
http://ask.fm/tkira26/answer/106973740775

宇都宮って焼きそばが有名なのですか?

.餃子ばっかりでもあれだってことで、いろいろ売り出しているようです。他にはカクテルとか。焼きそばは食べたことないのでよく知らないですが、楽しそうなのがあるようですね。
http://portal.nifty.com/2011/02/23/a/

司法取引についてご意見お聞かせねがいたく存じます。

.よろしい。では条件を聞こう。

北朝鮮と国交を結ぶときがくるかもしれないから朝鮮総連のビルを外交に関わる建物とみなすという地方自治体の慣行(?)があるそうですが、国交を結んだときにそういうビルを決めればいいだけじゃないかと思います。この「慣行」には合理性があるのでしょうか?

.そういう理由を明言しているところがあるかどうかともかく、実質的には北朝鮮の在外公館のような役割を果たしている(ところもある)わけで、そうすると実態をみて、他国と同様の扱いにするのにも一定の合理性があるといえるのではないでしょうか。同じく国交のない台湾に対しても同様の措置がありますし。とはいっても、少なくとも北朝鮮に対してそうした措置をとる自治体は減っているようです。
http://www.asahi.com/national/update/0809/TKY201308090281.html

「一秒前の自分」と「今現在ここに在る自分」と「一秒後の自分」は全て一貫性を持つ同一存在なのでしょうか。もし、これを別の権利主体者と考えたら、今の自分は過去の自分に強制され、今の自分は未来の自分に強制してると考えられませんかね。そして、この「過去の自分」を「受精前の親の生殖細胞」まで考えれば、もし精子や胎児に意思があり自らの意思で着床し分娩している(親が生まれさせた訳ではなく権利も侵害されていない)としても、人間は強制の連続の中に生きていると言えませんかね。

1) 無限遡行と自由意思論
.たとえば現在の私1の無軌道な行い(喫煙でもなんでも)が、将来の私2(→他者)の権利を侵害するとかそういう議論はあるんですが、これの無限遡行を認めていいかどうかですね。我々はどこかの時点で、意思が「始まっている」ことを認めているんじゃないかしら。それが幼児か小学生か、はっきりと線引きはできないかもしれませんが、明らかに意思がある状態とない状態を区別できていればそれでとりあえずは事足りるわけです。なので、精子や卵子にさかのぼって意思を認めるのはそのへんの直観に反する。あと、もしそうした遡行を認めるのであれば精子や卵子で止まることはなくってこの世界の始まりまでとことんいくのが筋ですから、そうすると要するに決定論にいたります。そして決定論(強制の連続?)と自由意思が両立するかどうかという古典的な議論に回収されるわけです。問題はそこからさらに面白いことが言えるかどうかですね。どうでしょう。

2) いまだ/もはや存在しない対象に何か強制できるのか
.あとはまあ、「強制」というのがいったい何を意味するかですね。私1が1秒間生きることは、1秒後の私2に何か強制しているといえるのかどうか。別に何か意思をもって1秒生きるわけではないので、あまりそうはいわないのではないか。もっとも、ある程度の時間的スパンをとってみればそういえそうな場面もあるかもしれませんが(喫煙による健康被害でもなんでも)、そこでいう強制とはなにか。強制というのを他者の意思に反して何かを行わせたり行わせなかったりすることだと考えるならば、そもそもその時点で私2の意思は存在しないわけなので、存在しない対象に何かを強制するというのは難しいのではないか。これ、私の最初の論文で*、通時的な他者と共時的な他者は「存在の依存性」の有無という点で異なる、と格好よさげに強調してみたんですが、特になんということもなかったです。
.いやもちろん、そういう存在を許す時間論をとって、実は私2もその意思2も実在するんだと論じることは可能ですが、そうすることでそこからさらに何か言えるかどうか。喫煙みたいに害が明らかな場合とか、あるいは他にも、自殺とか、腕を切り落とすとか、不可逆的な権利侵害?をともなう場合にはなんとなく説得力がありそうなものもあるにはあるんですが、でも、それがなぜいけないのかというのはそれなりに実質的な議論が必要になってくる。共時的な他者に対してしてはいけないことは通時的な他者(=将来の自分)にもしてはいけないだろう、というのが無難な答えではあるんですけど、これもどうなんでしょうかね。将来の自分を時間的に細分化していくと、現在から危害できる対象が際限なく広がっていくからなんだか無理がありそう、というのがひとつ。でも人間には一定の寿命があるんだからそんな無限になることはない、と答えていいのかどうか。……なんかできそうな気がしてイヤで、そうすると現在の自分を相当に強く拘束することになるので、どうもあまり魅力的な感じもしない。実践的な魅力はまた別にして、あれ、非同一性問題ってどうなったんでしたっけ、というのもあります。……まあ、このへんは延々と議論が続けられるところなので、続きは論文で、ということにいたします。というかすでにけっこう論じた気もするので、よかったらご覧ください。

* 吉良貴之「世代間正義論ーー将来世代配慮責務の根拠と範囲」、国家学会雑誌119巻5-6号、2006年

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戻れるならいつがいいですか?高校?大学?

.たぶんどこに戻ってもたいして変わらないことになりそうなので戻らなくてもいいです。これがたとえば「5年早く(遅く)生まれていたら」という問いであればちょっと考えこみます。法学部をめぐる状況は、研究にしても司法関係にしても、私の世代の前後5年ぐらいでまったく違ったものになっているからです。簡単にいえばローの影響ですが。
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兵庫県議員の野々村竜太郎さんについてどう思いますか?

.「まあこういう人もいるのだろう」以上には何も思わないです。というか別に首相候補とかでもないんだし、この会見だけで何か判断すべきでもないでしょう。ましてこないだの都議会のあれと引っかけて地方議員の質がうんぬんとかいうのは話を広げすぎだと思います。
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『泣きたくないなら労働法』はどんなもんですか。別に労働法を体系的・専門的に勉強したいわけじゃないので、さらっと読めるのがほしいのです。

.まるっきりのさらっとでしたら、東京都が出している「ポケット労働法」がいいんじゃないでしょうか。ひととおりのことがきっちりまとまっててすばらしいです。
http://www.hataraku.metro.tokyo.jp/sodan/siryo/pocket/
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日本はどうして勝てるわけないのに戦争なんてしたんですか?

.答えられるわけないのに質問するのと一緒ですよ。

吉良先生も女の子のことを考え悶々とした時期はあります?

.そういうのは野球まつりで小学生が松井秀喜に聞いて困らせて、地元のほのぼのニュースになるぐらいがいいんですよ。
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ヌスバウムってどの本から入っていけばいいですかね。

.いろんなことを論じている人なので、ご関心に応じて、というところですが、とりあえず全体像を知りたい場合は、神島裕子『マーサ・ヌスバウムーー人間性涵養の哲学』(中央公論新社、2013年)が包括的な紹介になっていますので、そこからがよさそうです。
http://www.amazon.co.jp/dp/4121100174

少年犯罪は「更生可能性」以外にも「責任能力」という観点はあるでしょうか。それこそ義務教育というパターナリズムの正当性は(大半のリバタリアンとしても)「子どもは判断能力が無いから最低限の判断能力を保障する([本人自身と社会の他者の]自由と権利の為の条件を保障する)」という根拠だったりするのでしょうし

.責任能力というのは刑法上、特定の意味を持っていますので、とりあえずはwikipediaとかでいいので確認お願いします。ここでは「善悪や今後の人生計画などについての判断能力」ぐらいの一般的な意味で考えておきます。で、現行の少年法の説明としては、更正可能性がある=今はまだ判断能力が未熟である、というのが前提として当然にあります。そういえば更正可能性と比べてあまり強調されないような気もしますが。
.リバタリアン的にどうかというと、少年の扱いというのはなかなか難しいんですが、判断能力の未熟さを根拠として義務教育までを公教育として認める(それ以上は公的にはタッチしない)とするならば、刑事についても15歳程度?で成人と同様の扱いにするのが一貫している感じもします。ただその一方、義務教育によって身につけられる程度の読み書きそろばん能力や自律性とかいったものと、刑事責任はまた別の話ーー求められている能力が違うーーなので、あえて同じ年齢で区切る必要もそんなになさそうです。少なくとも日本の場合、少年法の保護主義はこれまで、更正可能性という点ではかなり成功しているので、このあたりはそんなに現行法をいじらなくてもいいんではないかな、程度に考えています。もちろんこれはあんまりリバタリアン的ではないと批判されるかもしれません。
.なお、単なる言葉の問題ですが、判断能力が未熟な相手に対する介入をパターナリズムというのはちょっと不正確だと思っています。もう定着しているのであまり気にしても仕方ないかもしれませんけど、パターナリズムというのは「完全な判断能力を備えた」相手に対し、それでもその行いは愚かだからとか逆に本人の利益のためだとかいった理由で温情的に介入することをいいます。それに対し、そもそも判断能力が未熟な相手に対する介入はパターナリズムではなく、保護主義とか国親思想(parens patriae)などといったりします。未熟だから介入するというのと、未熟でなくともそれでも介入するというのでは正当化根拠がだいぶ違ってきますので、分けておいたほうが言葉の混乱は少なくなると思います。

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学説からの批判ってどのくらい効果があるものなんでしょうか

.裁判官だってエゴサーチぐらいはしますよ。
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コーネル読んでも意味不明なのですが、吉良先生はわかるのですかこれ。

.バトラーみたいな悪質ではないので、ゆっくり読めばそこまでのことはないんじゃないでしょうか。たとえば『イマジナリーな領域』は代表作といっていいと思いますが、具体的な問題をもとに論争的な議論を繰り広げていて読みやすいのではないかと思います。かなり幅広くいろいろ論じている人なので、ご関心に応じて、というところでしょうか。ポストモダン系の話が多くなっている本はもしかしたら、合う合わないが分かれてしまうかもしれません。でもバトラーよりはマシです。
.私の監訳した本だと『イーストウッドの男たち』は、映画批評をしながら「コーネル自身によるコーネル入門」みたいなわかりやすい話を繰り広げていますので、かなりおすすめです。いろいろ錯綜した議論をする人なので筋をつかみにくいところはどうしてもあるんですが、基本的な主張としてはわりとシンプルな人です。まず、リベラリズムとかが想定する自律的な主体像はそれ単独であるわけではなく、その主体形成の力学みたいなものに着目する必要がある、といったことが最初にあります。他者との関わりのなかで自分や世界にかかわるイメージを絶えず想像/創造し直していくというか。そこで重要なのが「限界」の自覚で、人々はなんらかのあるべき徳性を全体として身につけたり、あるいは世界のまるごとを認識したりできるわけではない。そうした主体形成や世界認識における限界をわきまえることではじめて、人々は新たな自己や世界に開かれる、といった筋になります。
.……というふうにまとめるとなんだか当たり前のような感じでもありますが、たとえばキャサリン・マッキノンやアンドレア・ドゥオーキンのようなフェミニストがともすれば陥りがちな本質主義の罠を告発していったり、主体の再-想像過程における精神分析の有用性を強調することでポストモダン系の議論と現代のリベラルな政治哲学を接合していったり、といったあたりでわりとオリジナルな議論の仕方になっていると思います。

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つい最近、お世話になっている先生から論文の抜刷をいただいたのですが、どのように対処すればよいものでしょうか?(ロー生なので研究のお作法がよくわからないものでして)

.普通に「ありがとうございます、勉強させていただきます」とお礼を申し上げればよいと思います。ふだんからお会いしている先生であれば何かの折に直接でいいですし、そうでもなければメールでいいでしょう。あえて葉書などお送りする必要まではないと思います(いけないことはないので暑中お見舞いなどのついでに書いてもいいですし、いただいたのが著書まるごとの場合はそのほうがいいかもしれませんが、それでも最近はメールが多いでしょう)。お中元やお歳暮など送った方がいいの?と悩まれる方もいますが、現役の先生と学生の関係でそういうことするのは問題になりえますので、してはいけません。
.感想など書いてお送りすべきかどうかとかも気になるかもしれませんが、普通はそういうことはあまり期待しませんので、特に必要ないと思います。何か言いたいことがあれば、というところでしょう。ただ褒めるだけのものはおべんちゃらみたいで嫌がる先生のほうが多いですので、書くのであればそれなりに実質的なコメントがいいと思いますが、まあそんなことするのもたいへんなので、どうしてもというわけでは全然ないです。

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